※本記事は2021年7月5日にnoteに投稿した記事の一部を再構成したものです
みなさん、ウマ娘やってます?
気付けば完全新作を出さずに5ヶ月が過ぎたので、久々に導入を書いてみます。
アプリリリースから2年が経過し、当時60名ちょいだったウマ娘も今では100近くなってますね。
プロジェクト発足から5年で100名と考えると、これから先もコンスタントに年間10名くらいの新規ウマ娘が発表されると期待して良さそう。
アニメ3期でドゥラメンテは確定として、後はスタブロでタイキブリザードとファル子主人公外伝でエスポワールシチーと…ブツブツ…
そんなことは置いといて。
今回取り上げるのは、競馬界の本筋から少し逸れた、裏路地みたいなドラマの数々です。
今までの#1〜8で取りこぼした名レース、名馬をだいたい救済すると同時に、裏街道や裏路線的なところにスポットライトを当てていきます。なのでウマ娘要素はうっっっすいですが、ここからウマ娘化される馬もいる…はず。
文章量は平常運転です。よろしくお願いします。
今回と次回で20年分まとめてるので2話に分けてます。その割に配分が歪。色分けは社台カラーとヘリオスカラーです。ウェイ。
漫画『ウマ娘 シンデレラグレイ』12〜13巻
前回↓
ここまでのあらすじ
投稿期間が空いたし区切りも付いたので、雑にここまでのあらすじを書いときます。
- 1984シンボリルドルフ、無敗三冠
後に有馬も制し四冠
- カツラギエース、JC逃げ切り
日本馬初JC制覇
- 1985ニホンピロウイナー、マイルで無双
とてもつよかった
- ミホシンザン二冠
ダービーはシリウスシンボリ
- シンボリルドルフ、七冠
史上初の八大競走6勝&JC制覇
- 1986メジロラモーヌ、牝馬三冠
トライアルレースまで完全制覇
- 1987サクラスターオー&マックスビューティ二冠
牡牝それぞれ二冠馬誕生
- ニッポーテイオー無双
マイルだけでなく中距離でもGI制覇
- 波乱の有馬記念
スターオーは故障。勝ち馬はメジロデュレン
- 1988本命不在のクラシック
オグリはクラシックに出られず。だがダービーは感動的な展開になった
- タマモクロス覚醒
重賞初制覇からノンストップで現役最強へ
- 芦毛対決の秋
秋三冠でタマモVSオグリ。2勝1敗でタマモに軍配。
- 1989イナリワン来訪
急に地方から移籍してきてGI3勝したバケモン
- オグリ連闘
長期休養→オールカマー→毎日王冠→秋天→MCS→JC→有馬という無茶苦茶なローテ
- 1990スーパークリーク、天皇賞連覇
豊ファンも増えた
- オグリ、スランプか衰えか
宝塚記念からGI3連敗。「終わった」とも囁かれた
- 大歓声のダービー
アイネスフウジン鞍上に万雷のナカノコール
- オグリキャップ、有馬で奇跡の復活
ヒーロー列伝のタイトルは「ありがとう。」
- 1991トウカイテイオー、無敗二冠
ルドルフの子が無敗二冠。しかし怪我で菊は回避
- メジロ牧場大躍進
マックイーンが念願の天皇賞春を、ライアンが宝塚を制覇
- マックイーン、降着
秋天の斜行で連覇は夢に。武豊スランプ突入
- 有馬記念は大波乱
これはびっくりダイユウサク
- 1992マックイーン、春天連覇
これで武豊は春天4連覇
- またしても無敗二冠馬
ミホノブルボンが無敗二冠。三冠が期待されるもペースを乱され、ライスシャワーの2着
- トウカイテイオー復帰
秋天はペースに乱されるも、JCで復活
- メジロパーマー、春秋グランプリ
独特なフォームの逃げでGI2勝
- 1993BNWと二冠牝馬ベガ
史上稀に見るハイレベルクラシック戦線
- 春天三連覇をライスシャワーが阻む
祖父も欧州最強馬を負かしてるので血は争えない
- ジャパンカップは騙馬が制覇
1番人気コタシャーンがゴール板見間違えて失速。とはいえ日本馬レガシーワールドは実力で勝ち切った
- トウカイテイオー、奇跡の復活
2度の故障を乗り越え、有馬記念で先頭を駆け抜けた
- 1994〜そしてヒーローは次世代へ
白いシャドーロールが揺れる
今回は↑の年表の裏であったことを解説していきます。
我が道を往く者たち
クラシック、古馬王道。歴史的名馬達の激突。
中長距離路線はいつも華やかだ。
ならば、それ以外は?
グレード制施行からの十年は、邪道が邪道でなくなるまでの革命の歴史だった。
1984
1984年、「八大競走」という日本のホースマンの憧れが事実上「GI」というカテゴリになった。目指すべき8レースが15レースになって帰ってきた。
ここでのムーブメントは、2歳レースや牝馬三冠、宝塚記念の格の向上と、マイルでの春秋2大レースの整備。
中でも、83年までは重賞が春に固まっていた短距離路線に追い風が吹いた。
春はスプリンターズS(GIII)、京王杯スプリングC、安田記念、そして阪急杯。
秋はスワンS、マイルCS、CBC賞。(87年からはセントウルSも創設)
どのレースも出走間隔を空けて挑めるようになり、メンバーがバラけない&賞金も高いため、短距離路線はより一層ハイレベルな争いが繰り広げられるようになった。
GIとなった安田記念は、未だかつて無い熱気に包まれていた。
今となっては考えられない、22頭立てとなった第1回GI安田記念。
大本命のニホンピロウイナーが不良馬場マイラーズCのあと骨折休養となってしまい、1番人気アサカシルバーで5.8倍という波乱のオッズ。
地方からは第4代南関東三冠馬サンオーイも参戦し、タレント揃いとなったこのレースを制したのは…
ハッピープログレスという馬だった。
アメリカのダート馬、フリートナスルーラの孫にあたり、血統的に近いところに岩手最強馬トウケイニセイや北関東の雄ダイコウガルダンといったダートの強豪が集うこの馬。
デビューから本格化まではダートでの勝ち上がりを余儀なくされたが、古馬になってからは芝で経験を積み、武邦彦パパらの手により芝短距離の差し追込馬としての才能を開花させた。
当時の中央競馬にはダート路線とか存在せず、ダート重賞はあって無いようなもの。適性があるなら芝を走らせない理由が無かった。
田原成貴に乗り替わり京王杯SCも追い込んで勝利したプログレス。
安田記念本番は雨。発表は良馬場だが内側の馬場は死んでいて、完全に外差し。
田原Jは内枠の利を捨てて外に進出し、馬場の荒れてないギリギリのラインを走らせ完勝。
鞍上のファンタスティックな騎乗もさることながら、馬も目を見張る末脚で駆け抜けた。
プログレスはスプリンターズS、京王杯SC、安田記念を連勝し「春の短距離三冠」を達成。今ではそんな概念は無いが当時はあったみたい。
とまあ、そんな強い勝ち方を見せた馬であっても、秋には完全復活したマイルの皇帝に負けてしまうのであった。
怪我明け2戦目、スワンS(1400m)で後続に7馬身差つけて圧勝したマイルの皇帝、ニホンピロウイナー。もちろんここでも力の違いを見せつけ勝利し、以降マイル路線は彼の独壇場となる。
1985 桜花賞
ということで、85年の春秋マイルGIはウイナーが天下統一した。ここに関しては競馬史#1で語ったので省略。
その裏で徐々に新しい風が吹き始めていたので、そちらについて解説しよう。
ことマイル重賞に関しては古馬重賞の数こそ多くなかったが、2〜3歳はそこそこ充実していた。そこで輝きを放っていたのが、85年の桜花賞馬だった。
重馬場の仁川で、貫禄の逃げ切り勝ち。
記録に残る勝利となった。
エルプス
世代 | 1985 |
---|---|
血統 | 父 マグニテュード(ミルリーフ系) 母父 イーグル(フェアウェイ系) |
成績 | 12戦9勝[9-2-1-0] |
主な勝ち鞍 | 桜花賞 阪神4歳牝馬特別(GII) 京成杯AH テレ東賞3歳牝馬S(現フェアリーS) 函館3歳S |
主な子孫 | テイエムオーシャン(牝馬二冠) |
ベガの回でも解説したが、桜花賞は阪神開催。輸送減りなどの関係もあり、基本的に関西の馬が勝つ。騎手も阪神のコース特性を理解している方が強いため、栗東所属の騎手が勝つことがほとんどだ。
だが、エルプスは美浦所属で鞍上の木藤騎手も美浦。厩舎、騎手共にこれがGI初制覇となった。
しかも勝ち方はハイペースの逃げ切り。これは奇跡的な1勝だったのだ。
関東所属騎手の桜花賞制覇は彼女以降10年の蛯名正義(アパパネ)まで現れなかったし、それ以降も吉田隼人(ソダシ)しかいない。
エルプス以降の関東厩舎所属の桜花賞馬はメジロラモーヌ、ダンスインザムード、キストゥヘヴン、アパパネ、アユサン、アーモンドアイ、グランアレグリア、スターズオンアース。
ラモーヌこそエルプスの翌年だが、それ以降は21世紀になってからで、しかも一部を除いてリーディング争い常連の厩舎ばかり。鞍上も河内、武豊、アンカツ、蛯名、Cデム、ルメール、川田。ベテランしか乗ってない。
逃げ切り勝ちに至っては15年のレッツゴードンキまで現れなかったし、ドンキちゃんは人気薄でスローに落とす、いわば伏兵的な勝ち方をしている。
GIを勝ったことがない厩舎、騎手が2番人気に支持され、ハイペースで逃げ切るという点においては、エルプスの桜花賞は史上類を見ない勝ち方だったと言える。
エルプスはオークスでも期待されたが、距離に対応出来ず大敗。京成杯AHで再び勝利を収めるも、2000mのローズSで逃げながら2着。エリザベス女王杯は大敗し、脚部不安を発症。古馬と戦うことなく引退している。
こうした過去もあって、エルプスと同じマグニテュード産駒ミホノブルボンはダービーと菊で距離不安説が囁かれたのだ。ブルボンの偉大さを改めて思い知る。
そんなエルプスには唯一とも言えるライバルがいた。時系列は前後するが、ライバルのGI制覇に触れたい。
タカラスチールという馬がいた。
エルプスを抑えて桜花賞で1番人気だった馬だ。
タカラスチールもエルプス同様短距離志向のスティールハートという種牡馬の産駒。ニホンピロウイナーの父だと言えばわかりやすい。
彼女は当初は期待されていなかったが、2歳秋から馬体が成長するに伴って、重賞でも勝ち負けできる馬になった。
クイーンCで重賞初制覇。マイルで戦えることを証明し、1番人気で迎えた桜花賞だったが…
ゲートで脚をぶつけ消耗し、15着と大敗した。
このショックは陣営的にも大きかったらしく、タカラスチールはクラシック戦線を離脱し、短距離オープンで走るようになった。
その後はコツコツ勝ちを重ね、関屋記念で久々の重賞制覇。このままGIまで駆け上がりたいところだったが、次戦の京成杯AHで立ちはだかったのは、またしてもエルプスだった。
エルプスは難しい逃げ馬だった。ハナに立てなければ持ち味を活かせず、平気で大敗する。けれどなぜか、タカラスチールと対戦する時だけはすんなり逃げに持ち込めた。
その証拠として、彼女たちの対戦したレースはいつもタカラスチールの方が人気で、そしていつもタカラスチールが負けていた。
エルプス勝利の裏でスチールは6着大敗。以降伸び悩み、鞍上がコロコロ変わりながらも重賞で2着3着する善戦マンになってしまった。
そんな彼女をGI制覇に導いたのが必殺仕事人、田島良保騎手だった。
1986 マイルチャンピオンシップ
田島騎手は勝負勘に定評がある騎手だった。
日本ダービーを4角26番手から一気の追込で制覇し、インタビューで「俺はダービーに乗ったんじゃない。ヒカルイマイに乗ったんだ」と答えた、肝の据わった名手である。
今まで先行策で善戦止まりだったスチールを、彼が栄光へ導いた。
圧倒的人気のニッポーテイオーが行き脚つかず中団。不穏な空気が流れる京都競馬場。なんとさらにその後方から虎視眈々とタカラスチール。一か八か後方一気に打って出た。
終盤にかけてニッポーテイオー郷原が位置を上げていくのに合わせてタカラスチール田島も進出を開始。4角で隣りあったニッポーとスチールは、それぞれ進路を内と外へ。
内から抜けようとするニッポーはやや馬群捌きに手間取りながらも、さすがにそこは名手。しっかり抜け出したが…もう脚が残っていなかった。完全にスタミナ切れだ。
一方、外から抜けたスチールは手前を替えて最後のひと伸び。早くに先頭に立ちあからさまにソラを使った(走る気を無くした)が、ニッポーが猛追したところがゴール。なんとか1着を死守した。
タカラスチール
世代 | 1985 |
---|---|
血統 | 父 スティールハート(サーゲイロード系) 母父 シャトーゲイ(ハイペリオン系) 半兄 ウメノシンオー(ラジオたんぱ賞) 半弟 タカラフラッシュ(〃) |
成績 | 32戦8勝[8-5-6-13] |
主な勝ち鞍 | マイルCS 関屋記念 クイーンC |
エルプスも記録を残したが、この馬の残した記録も凄かった。
日本でGIが制定されて以降、牡牝混合のGIで初めて勝利した牝馬がタカラスチールとなったのだ。
エルプスのライバルとして最後まで戦ったタカラスチール。その後は勝てなかったし、子孫にも恵まれなかったが、偉大な記録は消えない。
さて、若干時を戻そう。
玉座に集いし者たち
1985年の日本競馬は、シンボリルドルフを中心に回っていた。
天皇賞を制覇し、GIを5勝したルドルフだったが、ここで少し調整に狂いが生じた。
1985 宝塚記念
なんと直前になってルドルフが宝塚記念を回避したのだ。
本命不在の宝塚。暫定王者がいない中での椅子取りゲーム。
コース形状的に紛れが起こりやすいこのレースだが、さすがに10頭立てでは順当な結末になった。
6月の仁川は梅雨の中を使いまくるので馬場が荒れる。とても良馬場発表とは思えん状態。そりゃ外から差してきた馬が勝つ。
後半追い通しだったマルゼンスキー産駒スズカコバンが勝利。名前を超える大判級の勝利となった。
この頃から強いスズカ冠。オーナーは代替わりしているが、今でもスズカの名は消えていない。最近もスズカコテキタイが活躍している。
天皇賞(秋)
85年の天皇賞秋は「皇帝対決」となった。
ようやく復帰したシンボリルドルフと、マイル王ニホンピロウイナーの顔合わせ。
六冠目の戴冠かと思いきや…
皇帝の玉座を脅かす者は、孤高のエース以外にもいた。
故障明けぶっつけ本番。シンボリ牧場は外厩調整できるといえど、さすがに苦しい競馬になった。
宝塚3着、函館記念連覇の古豪ウィンザーノットが先頭に立ち、それを目標にルドルフは最後の末脚で伸び切った。しかし最後の最後に社台の勝負服が外から…
あっと驚くギャロップダイナ。実況のフレーズは未だに語り草とされる。
ルドルフ、二度目の敗北。競馬に絶対は無かった。
1986 日本ダービー
1980年代は社台グループが本格的に日本一の競馬団体へ駆け上がった時期。
期待馬にひたすらノーザンテーストを種付けし、しかもそれがなんやかんや成功したおかげで、社台の立ち位置は不動のものとなる。
皐月賞でダイナコスモスが勝利したが、社台総帥・吉田善哉氏の期待は別にあった。
ついに社台グループは、悲願に届いた。
その馬が生まれた時、善哉氏は「ダービー馬が生まれたぞ」と言った。
デビュー後も期待を裏切らず、共同通信杯を制したが、スプリングSが雪で順延、これを回避。
仕上がり切らない状態で迎えた皐月は10着。それでも善哉氏は「この馬でダービーを獲る」と言った。
最後の直線で見えたのは、生産者の意地だった。
大きく広がった直線で、最内を突いて抜け出したのは、サラブレッドクラブ・ラフィアン総帥、岡田繁幸の所有馬、グランパズドリームだった。
全ての生産者にとって悲願のダービー制覇。もちろんそれは岡田総帥にしてみてもそうだったが、吉田善哉氏は並々ならぬ思いでダービーに臨んでいた。
社台にとって日本ダービーは悲願のタイトル。過去には桜花賞馬シャダイソフィアを挑戦させたほど、この栄冠を欲していた。
自身の所有馬で天皇賞やオークスなどの大レースは制していたが、どうしても取りたかったのはダービー。その栄冠に向かって、雄大な馬体が、額に大きな流星を携えて駆け抜けていった。
第53代ダービー馬、ダイナガリバー。
社台グループの至宝、ノーザンテースト産駒唯一のダービー馬として、歴史に名を残した。
かくして社台レースホースはクラブ法人初のダービー勝ち馬主となり、その地位は急速に高まった。
その裏で苦渋を飲んだのが2着グランパズドリームのオーナー、ラフィアン(マイネル)の岡田総帥。彼はこの後もダービーへ馬を送り込むがついに勝てず、それどころかクラシックも制覇できず、2021年にこの世を去った。
彼の逝去から2ヶ月後、クラシックGI・オークスでマイネルの勝負服が先頭を駆け抜けた。
名はユーバーレーベン。馬名の意味は“生き残る”。
競馬はときどき、ドラマをくれる。
安田記念
さて、カールやアクトレス、ガリバーらの躍進により“ダイナ”の冠名で知られるようになった社台レースホース及び社台グループだが、彼らが変えたものは競馬の根幹的な部分にも及ぶと思う。
まだ八大競走のイメージが抜け切っていなかった業界。そんな中でもダイナアクトレスは有馬記念の次走にスプリンターズSを選んだり、常識破りのローテを敢行。そしてちゃんと結果を残した。
ギャロップダイナもルドルフを破った天皇賞から秋三冠を皆勤すると、翌年春は嘘のようにマイル路線に傾倒した。
そしてそれが実を結ぶ。
天皇賞よろしく後方から突き抜ける末脚。今の競馬ファンが見ると逆に安心するタイプの伸び方をしている。
今でこそ「安田記念を勝ったマイラーは秋天でも強い」みたいな図式が確立されているが、当時はそんなのも分からなかった状況。ギャロップダイナが東京のマイルと中距離の二階級で勝った事実が、直後ならニッポーテイオーとか、90年代ならヤマニンゼファーとかの出走を後押ししたのかもしれない。
有馬記念
86年の古馬路線は見ててなんか物足りない。冬にルドルフが故障、引退したから仕方ないが。
絶対王者のいない古馬GI。
春天勝ち馬はテスコボーイ産駒クシロキング、JCは外国馬。秋天は以前紹介したサクラユタカオーで、マイルCSはタカラスチール。GI2勝馬が少なかった。
宝塚も例に漏れずだったが、勝ち馬パーシャンボーイは英国産。外国産馬の初GI制覇だった。
だが、有馬は見応えあるメンバーが揃った。
二冠馬ミホシンザン、三冠牝馬メジロラモーヌ、GI2勝ギャロップダイナ、天皇賞馬クシロキング&サクラユタカオー、ダービー馬ダイナガリバーが集結。
さすがに84年とかと比べるとしょぼいが、クラシック王者達の共演に衆目が注がれた。
最後の直線、名バイプレイヤーのレジェンドテイオーが粘る中、機を窺ってダイナガリバーが抜け出す。ラモーヌは中団で揉まれる中、キレ負けしながらも懸命にミホシンザン。その外からいつものキレ味で差してきたのがギャロップダイナ。
社台RHのワンツー。口取り写真はここで引退のギャロップもまぜて一緒に撮影したらしい。
驚天動地の大金星
ギャロップダイナ
世代 | 1983 |
---|---|
血統 | 父 ノーザンテースト 母父 エルセンタウロ(フェアウェイ系) |
成績 | 42戦10勝[10-10-4-18] |
主な勝ち鞍 | 天皇賞(秋) 安田記念 東京新聞杯 |
主な産駒 | マルマツエース(エプソムC) オースミダイナー(北海道スプリントC) |
母父としての産駒 | ドリームマジシャン(名古屋・東海ゴールドC) |
ここまでギャロップダイナを普通に強い追込馬として紹介してきたが、彼のプロフィールを知ると印象がガラッと変わる。
まず母方の家系が聞いた事ないようわからん血統。母父がアルゼンチンの馬らしい。そんな母父に似たのかダートでも芝でもいける馬であり(アルゼンチンは芝ダート両刀馬が結構いる。サトノダイヤモンドの母マルペンサなどもそう)、実はなんと天皇賞を勝つまでダートでしか勝ったことが無かった。
ちょっと何を言っているか分からないと思うが、そんな馬もいるのだ。(芝でも重賞3着とかはあった)
初勝利がダート1200の馬が芝2500のGIで2着して引退って、この馬以降起こるはずがない珍記録だ。
偉大なる流星
ダイナガリバー
表彰 | JRA年度代表馬(1986) |
---|---|
世代 | 1986 |
血統 | 父 ノーザンテースト 母父 バウンティアス(ハイペリオン系) |
成績 | 13戦5勝[5-2-1-5] |
主な勝ち鞍 | 日本ダービー 有馬記念 共同通信杯 |
主な産駒 | ファイトガリバー(桜花賞) ナリタタイセイ(NHK杯) ゴーイングスズカ(目黒記念) |
母父としての産駒 | メイショウバトラー(JBCマイル2着) |
そのどデカい馬体からガリバー旅行記から拝借し名付けられたダイナガリバー。本著は主人公の冒険を描きつつも人の醜さとかなんやかんやを取り上げて問題提起する作品だった(と記憶している)。
ダイナガリバーが翌年に天皇賞を勝って凱旋門賞を目指そうという話になったが、骨折して行けなくなってしまったのは、「80年代〜90年代前半の日本馬、国内で故障して凱旋門賞回避しすぎ問題」への身を張った皮肉だったのかもしれない。(絶対違う)
1987 安田記念
翌87年は、86年秋三冠を全て3着で終わらせたミホシンザンが春の盾を制し復活したかと思いきや引退。クラシックはスターオーとマックスが大活躍した。
それは一旦置いといて、ここでは“若きマイル王の受難”について解説しよう。
ルドルフ、ウイナー、ラモーヌと歴史的名馬が相次いで引退。競馬界はニューヒーローを待っていた。
そのタイミングで現れた次期マイル王候補、ニッポーテイオー。クラシックを諦めてからは連対記録を伸ばしながら、再びGIの舞台へ。
マイルCSこそタカラスチールの大駆けに敗れたが、態勢は磐石。GI未勝利にも関わらず単勝1.7倍とという圧倒的支持率だった。
雨の安田記念。それはまるで雨中の稲妻のように、府中の直線を貫いた。
マイルCSの反省を活かし、道中2番手から早めに先頭に立ったニッポー。重馬場の中で先団は前半200-1000mの間を11秒台で刻んだ前傾ラップ。重馬場のため後方の馬は届きにくく、普通ならここから前で粘り切る体力があればまず差されない。まず差されないのだが…例外が存在したのが運の尽き。
雨の中を一気の末脚。柴田政人の駆るフレッシュボイスが、後方から追い込んで1着。
霹靂一声
フレッシュボイス
世代 | 1986 |
---|---|
血統 | 父 フィリップオブスペイン(オーエンテューダー系) 母父 ダイハード(ナスルーラ系) |
成績 | 26戦7勝[7-2-2-15] |
主な勝ち鞍 | 安田記念 産経大阪杯(GII) 日経新春杯 毎日杯 シンザン記念 |
この馬も特殊な馬だった。
後方からの競馬を得意としており、重馬場だとなお得意。血統が血統なので(5代父が英二冠馬ハイペリオン、そこから脈々と続く欧州血統。母父も欧州系で牝系だけメジロ系に近い)いかにも欧州系な特性をしている。
タフな競馬はお手の物。雪の毎日杯を圧勝した経験もあるこの馬なので、前が疲弊しペースが緩んだ瞬間に飛んできた。
(毎日杯で実況の杉本さんが発した「雪は止んだ!」は名実況として語られる。カメラの画角と走りの勢いで雪が止んだように見えたため)
晴れてGI馬となったフレッシュボイス。この後も善戦を続けるし、宝塚記念でイナリワン相手に追い込んでクビ差まで迫るなど強いところは見せたが、種牡馬としては成功しなかった。
スピード能力に長けたノーザンダンサー系やロベルト系が重宝されるようになってきた90年代前半で、スタミナパワー全振りハイペリオン系の馬は需要が無くなってきていた。しかも父もさほど有名でない馬。セイウンスカイとほぼ同じ理由で種牡馬として敬遠され、後世に血を残せなかった。
宝塚記念
その一方で、期待されながら早世した種牡馬もいた。色んなレースが絡んでくるので、87年の春GI戦線を振り返りつつ宝塚を解説していこう。
ミホシンザンがなんとか勝ち切った天皇賞(春)で2位入線だったニシノライデンという馬がいた。この馬はルドルフと同期で、ビゼンニシキ(ダイタクヘリオス父)らと並びルドルフのライバルとされていた。
最終的にはGII4勝と優れた成績を残したニシノライデンだが、普通に走れてたらもっと勝ててたとされている。
何を隠そう、彼は斜行王。降着制度の生みの親と呼ばれている。天皇賞でも思いっきり斜行してしまって失格処分になった。
斜行の影響で鞍上の田原騎手がかなりの長期間騎乗停止となり、フレッシュボイスは無念の乗り替わり。柴田騎手でGIを勝ってしまった。
宝塚の週にはなんとか間に合った。もちろん騎乗馬はフレッシュ…ではなくニシノライデン。天皇賞は(斜行さえなければ)ほぼ勝ちに等しい内容だったため、安田2着のニッポーテイオーを抑え1番人気に。
今なら自分の身のためにも他の馬に乗る事が出来るだろうが、当時はエージェントとかも無い時代。名門・伊藤修司厩舎の馬なので、腹を括って乗るしか無かったのだろう。(田原さんの場合は癖馬に乗るの楽しんでそうだけど)
普通に走れば強い先行馬。メンバーが薄くなりがちだった宝塚なら、圧勝すらも期待できたが…
スタート直後から掛かってしまった。コースにできた影にびっくりして飛び上がっちゃったらしい。
馬主の好みもあるのだろうが、西山さんの馬は個性的な馬が多い。ゲート入り全力拒否のセイウンスカイとか。オーナー代替わり後もダートと芝の境目で大ジャンプしちゃったニシノデイジーとかいるし。
道中なんとかなだめて3着に粘ったライデン。ニッポーさんはまた2着。
ライデンを抑えて勝ったのは、同期のスズパレードだった。
スズパレード
世代 | 1984 |
---|---|
血統 | 父 ソルティンゴ(ペティション系) 母父 ロムルス(リボー系) |
成績 | 25戦12勝[12-1-1-11] |
主な勝ち鞍 | 宝塚記念 中山記念 ダービー卿連覇 オールカマー(GIII) 福島記念 中山金杯 ラジオたんぱ賞 |
この馬は競走馬としてではなく、幻の種牡馬ソルティンゴの産駒として語られることも多い。
「ソルティンゴ事件」の話をしよう。
社台グループ総帥、吉田善哉氏は世界中からいい馬を買い漁っていたが、日本は競馬後進国。好き好んでそんな国に馬を売りたいホースマンはいない。
なので吉田一族は海外セリで馬を買い、現地で走らせ、そして日本に輸入する事も多かった。このパターンで輸入した種牡馬はノーザンテースト、リアルシャダイ(ライスシャワー父)など。(サンデーサイレンスで成功してからはジャパンCに来た馬を権利ごと買う形も多い)
ソルティンゴもそのパターン。当時はハイレベルだったイタリアでGI2勝を挙げ、期待されながら社台で種牡馬入りとなった。
ソルティンゴは父系がペティション系。JC勝ち馬ホーリックスや欧州最強馬ブリガディアジェラード、ディープインパクトの曾祖母ハイクレアなどがいる系統。ちょっと範囲を広げると英ダービーを10馬身差圧勝、引退後誘拐されたシャーガーなども。もちろん彼は血統的にも期待を受けており、種付け数も集めていた。
だが、事件は起こった。
厩務員が間違えて別の馬の放牧地にソルティンゴを放ってしまい、縄張りを侵されたと勘違いした馬が激怒。ソルティンゴは蹴り飛ばされ、打ち所が悪く受精能力を喪失してしまった。(痛そう)
それだけなら良かったのだが、責任を感じた牧場長が自ら命を絶った。ソルティンゴも受けた傷が原因で2年後に逝去。悲しい歴史である。
ソルティンゴに残された産駒はわずか1世代のみ。その中からダービーに出走した馬がなんと4頭もいたため、存命ならサンデーまではいかずともトニービンやカーリアン、ブレイヴェストローマン並の活躍は見せてくれたかもしれない。
(ちなみにソルティンゴを蹴った馬は社台初のダービー馬ダイナガリバーの母父、バウンティアスだった。なんとも皮肉である)
残された産駒の1頭がスズパレードだったのだが、この馬は慢性的な脚部不安を抱えていた。曰く「骨折以外の脚部不安は全て経験した」とか。
されど息の長い活躍を見せ、6歳でGIを制覇。
その後すぐに故障してしまったが、7歳になり復帰すると、復帰初戦のオールカマーを中461日で重賞制覇。しかもレコード勝ち。もちろん当時の日本記録となった。トウカイテイオーもびっくりの大記録だ。
テイオーは中52週、スズパレードは中66週で復帰初戦の平地重賞を制覇。どちらも凄いことに変わりはないが、スズパレードを超える馬はなかなか現れなかった。(サクラローレルは中55週、シャケトラは56週)
しかしつい最近、ヴェルトライゼンデが中495日、中70週で復帰初戦重賞制覇の金字塔を打ち立ててしまったため(2022鳴尾記念)、惜しくもこの記録は過去のものになった。
ヴェルトも父が気性荒すぎ&馬体小さすぎて種付けのリスクが大きすぎて種牡馬引退したドリジャさん。形は違えど父が期待されて結果も出してたのに(略)つながり。どっちも後継残したくて勝てるよう必死に治療されたんだろうな…
だがスズパレードは社台には拾われず、イーストスタッドで細々と種牡馬生活をすることに。日高の繁殖牝馬を中心に種付けしたものの、90年代の流れに置いていかれ活躍馬を出せず。ついにソルティンゴの血は後世に残らなかった。
それでも「ルドルフ世代で古馬GIを勝ったルドルフ以外の馬」はスズパレードしかいない。
ここからのGI戦線はニッポーテイオー無双なので省略。翌年の安田は良馬場でさっきの安田とほぼ同じラップタイムを刻んで圧勝している。
意地と矜持
本シリーズでも#1〜3あたりで紹介したように、ニホンピロウイナーがマイル路線を開拓し、ニッポーテイオーが耕した。
その続きをなぞり、拡げていったのは、他でもない王道を歩む者たちだった。
ここからは90年代前半までのマイル&スプリント路線を中心に見ていこう。
日本競馬が成熟していなかったこともあり、マイルGIは中距離馬の狩り場みたいになっていた側面もあった。少し前の香港中距離GIのような立ち位置。
ギャロップダイナは王道路線からマイル路線に切り替えての勝利。フレッシュボイスも阪神大賞典4着からの参戦。煮詰まった中長距離界の抜け道をマイルに求めていた。
1988
それはこの馬もそうだった。
美しい尾花栗毛の彼は、圧倒的な加速力とスタミナを持ち併せていながら、気性の荒さと体質が災いし、その力を発揮し切れずにいた。
気性難の馬に長距離は向かない。競馬は最後の直線で結果が決まるからである。
前半から中盤のローペースに耐えられず折り合いを欠き前に行きたがってしまうと、無駄なスタミナを消耗し、終盤で追い抜かれる可能性が高くなる。
そのため、掛かってもなんとかなる短距離の方が向いているとされる。スタートさえ上手ければ。
2000mだとレコード勝ちできるほどのポテンシャルを秘めながら、ダービーで大敗。
目指したいクラシック最後の一冠、菊花賞。
血統的には距離不安はない。折り合いさえ付けられれば。
そう思った矢先の故障。もう諦めるしかなかった。
仕方なく切り替えた次のレースが、彼の運命を変える。
サッカーボーイ、復活の激走。
横綱相撲とはこういう事を言うのだろう。
他馬とは一線を画すスピードと加速力で影すら踏ませない。
いつしか付いた渾名は栗毛の弾丸。
その末脚は弾丸シュート。
クラシック無冠馬が陽の光を浴びた瞬間だった。
次走の有馬記念では運命のゲートが開…く前に暴れて出血。これもディクタスの血の宿命。
それでも血を流したまま4位入線3着。タマモ、オグリ、クリークに次いでの入線。長距離でも走れることをアピールできた。
(歯折れる&流血騒動は某ウマ娘漫画でもポップに再現されている)
この調子で安田と宝塚も…と思った矢先の骨折。そのまま引退となってしまった。
種牡馬の世界はシビア。GIを複数勝っていないとまともに使ってもらえず、種付けする牝馬の質も悪くなる。優秀な子孫が生まれなくなる。血が途絶えてしまうのだ。
だからこそ勝てるまで走らせる。勝てなければ引退後に待っている道は茨でしかない。
サッカーボーイはなんとかその道を免れた。
芝2000mで日本レコードを出していること、マイルGIで2勝していること、2500mでも戦える力が評価されたのだろう。
種牡馬入りにあたって、目を付けたのが社台グループ次期総帥の吉田勝己氏だった。
血統史の回で触れた「内国産馬不遇の時代」。あれの要因の一つに社台グループがあった。
社台はその圧倒的な資金力とコネクションで優秀な繁殖牝馬と種牡馬を集め、ここ40年の日本競馬の基盤の8〜9割を作ったと言っても過言ではない大軍団だ。
当時社台グループの総帥を務めていた吉田善哉氏は、「内国産馬はうちでは面倒を見ない」と決めていた。海外に比べて大きく遅れを取っている日本競馬を発展させるには、海外の血を取り入れることが先決と考えたからだろう。
そのため、メジロライアンやカミノクレッセの父となった内国産馬アンバーシャダイですら他の牧場に売り渡していた。
しかし勝己氏は「天下の社台ファームが内国産種牡馬を育てられないようでは情けない。サッカーボーイは絶対に成功する」と父善哉氏に猛抗議。なんとかサッカーボーイを社台スタリオンにて繋養させることに成功した。これがやがて奏功する。
種牡馬入り後数年は伸び悩んだが、徐々に産駒が活躍し始める。どんなに気性の荒い牡馬でも大人しい牝馬と掛け合わせれば、それなりに気性面は落ち着く。
サッカーボーイは元々長距離向きの血統だったため、子供たちは皆中〜長距離で活躍する馬ばかりだった。
そして1999年。サッカーボーイが達成できなかった菊花賞制覇を成し遂げる子が現れた。その馬は4歳になっても引退することなく現役を続け、古馬VS古馬の闘いを存分に繰り広げた。
しかし、血の宿命というものだろうか。子の眼前にも怪物が立ちはだかった。オグリキャップと同じく重賞12勝を記録し、圧倒的な力で一強体制を築いた覇王。後塵を拝したことは言うまでもない。
しかしサッカーボーイの子らは数多くのドラマを作った。ミラクルおじさんとか色々。これも社台グループ内での変革の動きがあったからこそである。
1989 マイルCS
その流れで時代を変えたライバル、オグリキャップも見ておこう。
2000mでこそ勝てていないものの、1600mと2500mのGIでそれぞれ2勝。大阪杯がこの時代からGIだったらきっと勝っていただろう。万能な馬だった。
そんなオグリを語る上で外せない一戦がある。
1989年、マイルCS。
引退の有馬記念やタマモクロスとの芦毛対決ばかりがフォーカスされがちだが、熱い勝負はマイルにもあった。
オグリは前走の天皇賞(秋)で不利こそあったがスーパークリーク武豊に負けた。そこから中2週での参戦。この流れを変えたかった。
圧倒的1番人気に支持されたオグリ。まだ鞍上は南井克巳だった頃。
対抗馬はバンブーメモリー。同世代で89年安田記念勝ち馬。春秋マイル制覇を狙っていた。岡部幸雄から乗り替わって今回は武豊が騎乗。
史上に残る大決戦のゲートが開いた。
道中はどちらも絶好位をキープ。インを突いて位置を上げていく。
レースが動いたのはやはり3コーナー。この秋4戦目のオグリキャップは反応がやや鈍いながらも促され外へ。そのタイミングでバンブーメモリーが外からマークしに入る。
4コーナーで武豊はバンブーの手応えを信じ、進路を外へ。南井は内へ。
ただ一頭外から突き抜けるバンブーメモリー。それを追いかけ馬群を捌いてオグリキャップ。
ライバルとして立ち塞がるはまたしても武豊。
負けられない南井克巳。譲れない武豊。
マイラーの矜持か、スーパーホースの意地か。
大接戦となった最後の直線。
激しい2頭のせめぎ合いの末、ハナ差でオグリが勝ちをもぎ取った。
バンブーメモリー武豊は敢えてオグリの進路を塞がなかった。1on1のガチンコ勝負を挑みたかった、オグリの強さを確かめたかったからだという。
このスポーツマンシップ(?)がウマ娘版バンブーにも引き継がれ、正々堂々闘いを挑む熱血キャラになったのだろう。
とはいえバンブーの敗因はたぶん「レースが上手く行き過ぎた」ことと、「馬場」に起因する。
あんまりにも手応えが良すぎて思ったより早く突き抜けてしまい、最後の方は失速してしまっている。
それに加えて最内の馬場の良いとこを空けて1番悪いとこを走り、オグリに挑んでいる。
勝とうと思えばオグリの進路を塞げば簡単に勝てたレース。それでもあの形に持ち込んだのは、武豊がそういう勝負を望んでいたから。実際今も名勝負として語られているということは、この選択は間違っていなかったのだろう。
1990 マイルCS
その後オグリは連闘したジャパンCを世界レコードで走破。バケモンすぎる。
バンブーもオグリを追って同レースに出走、大敗したが、翌年の安田記念は分からなくなってきた…と思ったのも束の間、90年春は病気が相次ぎ全敗で終わる。
もちろん安田はオグリが勝った。
秋口はオグリが不調。古馬三冠に挑むが大敗が続く。
バンブーはようやく復調し始め、天皇賞勝ちが見えたがヤエノムテキとメジロアルダンの猛攻に押し負け3着。クリークが抜けてオグリが不調でなおこの層の厚さ。
しかし彼の本業はマイラー。勝つべきはマイルCS。今年はオグリが出ないため、堂々の1番人気。単勝1.6倍。誰もが勝ちを確信していたのだが…
道中抑えながら追走したバンブー。強烈な追込勝ちを見せた安田記念とは対照的。最後は伸びたがジリ脚になり、外から飛び込んできた豪脚に差されてしまった。
魔性の弾丸
パッシングショット
世代 | 1988 |
---|---|
血統 | 父 トウショウボーイ 母父 ネヴァービート |
成績 | 27戦5勝[5-10-3-9] |
主な勝ち鞍 | マイルCS CBC賞(GII) |
飛んできたのは、同世代の伏兵牝馬だった。
マイルCS本番から数ヶ月前のこと。春の不調を引きずったままバンブーは夏のCBC賞(当時はGII)に挑んだ。
ここでなんとかバンブーは2着に立て直し、復調の気配を見せた。これで本番は磐石と思ったのも束の間、本番で立ちはだかったのは、 そのCBC賞の勝ち馬だったのだ。
10番人気の暗躍に淀はどよめいた。
スプリンターズS
だがバンブーには続きがあった。
狙うGI2勝目、スプリンターズS。
あれ?と思うかもしれない。マイルCSが10月、もうスプリンターズは終わってる季節だ。
しかしそれは今の話。昔は違った。
1984年にグレード制が始まり、GIIIとして始まったスプリンターズS。(87年にGII昇格)
当時は今の高松宮記念の季節、3月末に開催されていたが、マイラーはみんな大阪杯とかマイラーズC行くし、普通の1重賞として機能していた。
そこでJRAは改革に打って出た。有馬記念に出られない短距離勢のため、スプリンターズSをGIにし、年末開催に持ってきたのだった。
今でこそ春と秋は毎週GIがあるのが当たり前になったが、そうなったのは90年から。当時としては革新的なことだった。
第1回・GIスプリンターズS。
今でいう阪神カップの時期。中山に猛者が集う。
とは言っても、GI馬はバンブーメモリーとパッシングショットの2頭だけ。マッチレースが期待された。
蓋を開けると予想以上の余裕の走り。馬群を割って堂々と抜け出す。オグリと互角に戦ったその脚は伊達ではなかった。
記念すべき初の国内スプリントGIを制したバンブーメモリー。
武豊はGI7勝目。短距離〜長距離の全階級を制覇した。
そしてこれを最後にパッシングショットは引退。マイルCSは馬主、調教師、騎手、それぞれが初のGI制覇だった。このレースも出遅れなければワンチャンあったかもしれない。
産まれる子にも大きな期待がかかっていたが、ニッポーテイオーと種付けしようと準備してた時に事故ってしまい、そのまま天国へ行ってしまった。残念。
その後、橋田調教師は大出世し、サイレンススズカやアドマイヤベガの面倒を見ることになる。(不運な馬ばっかやなあ…)
バンブーは翌年も現役を続けるのだが、そこで待っていたのは名キャスト勢ぞろいの激動の時代だった。
あとがき
と、一旦ここまでで80年代裏路線編は終了となります。
他にも芦毛ダービー馬とかトピックは星の数ほどあるんですが、取り上げ出したらキリないんでまたの機会に。
(本編中に解説を忘れてたんですが、社台系の馬が「ダイナ」冠なのは「ダイナースクラブ」というクレカの会社と社台が提携してたから。でも87年からは冠名使わなくなったので、サッカーボーイというややダサ馬名になったということです。)
次回は舞台版ウマ娘と時代がまるまる被ってるので、そことも絡めつつ語れたらいいかなって感じです。
次回もよろしくお願いしまーす。
コメント
いつも記事楽しく読んでます、サイト切り替えで記事移動終わって新作読めるの心待ちにしています。
ありがとうございます!!
早いこと完全移行させますんで、今後ともよろしくお願いします🙇♂️