※本記事は2021年4月4日にnoteに投稿した同名の記事を再編集したものです
お久しぶりですこんにちは。ウマ娘やってます?
僕はキタサンブラックSSRのために80連回したもののSSRすら出てくれなかったです。泣きそう。
というわけで第2回でございます。
ここらへんからシンデレラグレイ世代に突入します。みんなヤンジャン読もうね。
前回までのあらすじ
- 1980〜82年日本競馬暗黒期
ハイセイコーやTTGの時代が終わり、八大競走3勝馬が長くの間不在となった。この時代の名馬はアンバーシャダイ、ホウヨウボーイ、モンテプリンスなど。
- 1981年「ジャパンカップ」創設
海外に通用する馬づくりのため、世界各国から競走馬を招待して行われる大レース。創設直後は日本馬の大敗が続いた。
- 1983年19年振りの三冠馬誕生
トウショウボーイ産駒ミスターシービーが常識破りのレース運びで三冠馬となった。父が内国産馬の三冠馬はこれが初。
- 1984年「グレード制」施行
アメリカ競馬に倣い、日本で開催される中央重賞はそれぞれGI、GII、GIIIとクラス分けされるようになった。84年時点のGIは八大競走+ジャパンC+宝塚+エリ女+東西2歳+春秋マイルの計15競走。
- 1984年史上初の無敗三冠
シンボリルドルフが8戦8勝で史上初の無敗三冠馬となった。以降も国内では全戦3着以内と安定した活躍を見せ、85年には旧八大競走+ジャパンCを計7勝し、「七冠馬」となる。
- 1984年日本馬がジャパンカップを制覇
ミスターシービー、シンボリルドルフら2頭の三冠馬が揃ったジャパンCで、日本馬初の勝利を収めたのは伏兵カツラギエースだった。エースは次走の有馬記念でも2着と好走。実力を証明した。
- 1985年史上初の春秋マイルGI制覇
ニホンピロウイナーがマイルCSを勝利し、春秋マイルGI同一年制覇(前年から数えると3連勝)。マイル以下の距離では18戦14勝2着3回と驚異的な成績を残した。
- 1985年地方所属馬のジャパンカップ大激走
シンボリルドルフが勝利した85年ジャパンカップで、船橋競馬所属のロッキータイガーが2着と大健闘。同馬の活躍により帝王賞、オールカマーがそれぞれ地方/中央交流戦となり、後のダートグレード競走開催への布石となった。
皇帝の時代
圧倒的な強さを誇った皇帝。同世代の馬たちはクラシック期から古馬路線まで尽く蹂躙されたが、次世代のクラシックは別。最強不在の戦場で次世代の星と目されたのは…
歴代最強を受け継ぐ者と、現最強と同じ名を冠す者だった。
最強の系譜
ミホシンザン
世代 | 1985 |
---|---|
血統 | 父 シンザン(ヒンドスタン系) 母父 ムーティエ(プリンスローズ系) |
成績 | 16戦9勝[9-1-4-2] |
主な勝ち鞍 | 牡馬二冠(皐月賞・菊花賞) 天皇賞(春) |
主な産駒 | マイシンザン(NHK杯) グランドシンザン(愛知杯) |
母父としての産駒 | サイレントグリーン(盛岡・せきれい賞) |
主な子孫 | イーグルカザン(盛岡・すずらん賞) |
最強の五冠馬、シンザンの最高傑作として育てられたミホシンザン。その割にはGIたった3勝?と思う方もいるかもしれない。
ゲームでウマ娘を育成すると、GIしか出さない上にだいたい勝てるからGI15勝とかも夢じゃない。
が、それはゲームだからです。現実をなめてはいけない(戒め)
日本では毎年7000頭以上の競走馬が量産されていく中で、地方、障害含む国内GIを3勝以上した馬は2022年末までで98頭しかいない。
グレード制施行以前でも現GIの重賞を3勝した馬はトキノミノル(たづなさんの元ネタ)やテンポイント、スピードシンボリなど、ほんのひと握りの名馬ばかり。15頭くらいしかいない。そう言われると凄さがわかるだろう。
しかし、ミホシンザンも本当はこんなもんじゃなかったはず。秘めたポテンシャルは父シンザンとそんなに変わらなかったはずなのだ。
問題は別にあった。
「無事是名馬」という言葉をご存知だろうか。
「(能力が多少劣っていても)怪我なく無事に走り続ける馬は名馬である」という意味だ。
1着でなくとも掲示板内(5着以内)に入れば賞金が貰える競馬において、長く走り続けることは何より重要。
故に113連敗したアイドルホースのハルウララや、えげつないペースでレースに出続けた鉄の女イクノディクタスが称揚されるわけである。
どんな荒れた馬場で走っても怪我一つしないシンザンは、これの代表格だった。
それに対して、ミホシンザンは…
デビュー前から右脚に爆弾を抱え、何かある度に調子を崩してしまっていたのだ…
まず骨膜炎の調整でデビューが一年遅れ、皐月賞直前でまた症状が再発するも強行。余裕の5馬身差で勝利。強すぎる。
(これがレベルが違うレース運びです)
しかし右脚を庇うような走り方の反動で左前脚を骨折、ダービーを諦める。CB、皇帝に続く三年連続三冠馬の夢は儚く散った。
幸い、軽めの骨折だったため、前哨戦も快勝し挑んだ菊花賞。
大外ぶん回して快勝。無事に二冠馬となった。
調子も取り戻して挑んだのは年末の有馬記念。
前年のジャパンC、有馬記念での三冠馬vs三冠馬に続き、三冠馬vs幻の三冠馬との対決。
当の皇帝・シンボリルドルフは連覇のかかった有馬記念。前走のジャパンCでも1着を取っていた。
現時点で六冠馬vs二冠馬。もちろんミホシンザンは2番人気だった。
レースは終盤に皇帝が圧倒的な末脚で突き放しセーフティーリード。誰も追いつけずに圧勝。ミホシンザンは4馬身後ろから七冠馬の誕生を見届けた。
「ミホシンザンで勝てないならもう誰も勝てないじゃん…」
誰もがそう思ったことだろう。
だがミホシンザンもこの程度では終わらない。
翌年3月、春の盾の前哨戦、日経賞に出場すると…
また骨折した。
しかも前回と同じ左前脚。復帰に時間がかかった。
復帰してから年末までは連戦連敗、といっても全レース3着。骨折を気にして本気の走りが出来ていなかったという。そりゃそうだ。
しかし、年明けに久々の白星を挙げると、二度目の日経賞で無事1着。
これは天皇賞も勝っただろうと思われたその頃…
レースの反動で体調を崩した。
皐月賞以来の最悪のコンディションで迎えた当日。なんとか騙し騙し走って第三コーナー。外から飛んできたニシノライデンに追い付かれまいと力を振り絞って走り抜き、ハナ差でギリギリ勝利し、二冠馬の意地を見せつけたのだった。
しかし、反動で今にも死にそうなほどクタクタになってしまう。
溜まりに溜まった疲労はなかなか抜けず、調子も戻らずで、結局陣営は引退を決意。GI3勝でターフを去った。
いずれシンザンについても書くと思うが、こんなに体質の違う親子は他にいない。
ウマ娘次元で例えるなら、シンザンが見た目素朴だけど走ったら爆弾みたいな脚力と最強補正でどんな場所でも全勝ちする日本一の激強ヒロイン。
ミホシンザンはシンザンに憧れて走るも古傷が痛むし重馬場走ると骨折する不幸ヒロイン枠。なお主人公にすぐボコボコにされる。主人公(皇帝)君さあ…
唯一シンザンに似たところと言えば、あれだけ脚に不幸を抱えながら32歳まで長生きしたところくらい。人間で言うとだいたい90手前くらいの年齢だ。
まあシンザンは35歳まで生きたんですけども。化け物すぎる。
そしてもう一頭。不幸体質の同期がいた。
悲運の一等星
シリウスシンボリ
世代 | 1985 |
---|---|
血統 | 父 モガミ(リファール系) 母父 パーソロン(トウルビヨン系) |
成績 | 26戦4勝[4-4-2-16] |
主な勝ち鞍 | 日本ダービー |
主な産駒 | ベストファーザー(道営・北斗盃) |
母父としての産駒 | キングウイザード(佐賀・ニューイヤーC) |
(顔が良い)
夢女製造機でおなじみウマ娘シリウスさんだが、史実では波乱に満ちた生涯を送っている。
シリウスはルドルフの一個下で、シンボリ牧場内でよくルドルフと一緒に走っていたという。(ルドルフの速さについていけるのがこの子しかいなかった模様)
そんなわけで三冠を期待されていたのだが、牧場オーナー兼シリウスの馬主が、ちょっといざこざがあり、厩舎を無理やり移籍させてしまう。
後に調教師組合を巻き込む大問題になり、結局わずか1週間で元の厩舎にカムバックしたものの、皐月賞には出られず。1不憫。
ダービーはミホシンザンが骨折で回避したため、一番人気で出走。シリウスの得意とする重馬場だったため、難なく勝利する。
ご覧の通り。
このまま菊花賞へ…と思いきや、シリウスはヨーロッパに長期遠征することになる。
もともと日本で圧倒的な強さを誇っていた皇帝ルドルフに帯同して行く予定だったのだが、皇帝はたまたま体調を崩してしまったため、シリウスだけでもということで渡航。
今でこそドバイや香港などで1着が取れるようになった日本馬だが、欧州は未だにハードルが高い。
まして当時の日本馬が海外で勝てるわけがなかった。
一年半の渡欧の末、ようやく帰国。結果は14戦0勝。
2不憫。
一年以上負け続けたシリウス。そりゃ疲れもストレスも溜まるだろう。帰ってきた時にはまるで別の馬に成り果てていたという。
帰国後も負け続きで一年が終わり、そして現役4年目の秋、事件が起こる。
毎日王冠のゲート入り前、むしゃくしゃしていたのだろうか、シリウスは有力馬だったレジェンドテイオーとダイナアクトレスに回し蹴りを喰らわせてしまう。
シリウス自体はスカッとしたのかオグリに次いで2着(帰国後1番高い順位)と好走したのだが、レジェンドテイオーが怪我でレースに出られず、同馬の厩務員とシリウス陣営はレース後にかなり揉めたという噂。
「ダービー馬」だったシリウスの印象が「回し蹴りの馬」に上書きされてしまった。3不憫。
シリウスは次走の秋天で骨折し、引退。4不憫。
あまりにも不運な馬だった。
前述の移籍騒動や今回の回し蹴りの件でシンボリ牧場は逆境に立たされるも、メジロ同様、長距離や障害レースでコンスタントに活躍馬を輩出する。
だが、マックイーン級の救世主が現れるのは、オーナーが代替わりしてからのことだった。
スペシャリスト
さて、ここからはサブタイトル「影と栄光」の栄光の部分です。ご安心を。
栗毛の大器
サクラユタカオー
世代 | 1985 |
---|---|
血統 | 父 テスコボーイ(ナスルーラ系) 母父 ネヴァービート(ナスルーラ系) |
成績 | 12戦6勝[6-2-0-4] |
主な勝ち鞍 | 天皇賞(秋) 毎日王冠 産経大阪杯(GII) |
主な産駒 | サクラバクシンオー(スプリンターズS連覇) エアジハード(春秋マイル) サクラキャンドル(エリザベス女王) ウメノファイバー(オークス) メルシータカオー(中山大障害) ダイナマイトダディ(中山記念) ユキノビジン(クイーンS) |
母父としての産駒 | クィーンスプマンテ(エリザベス女王杯) ロジック(NHKマイル) タムロチェリー(阪神JF) ダイタクリーヴァ(スプリングS) ダイタクバートラム(阪神大賞典) |
主な子孫 | 直系:ビッグアーサー(高松宮記念) グランプリボス(NHKマイル) ショウナンカンプ(高松宮記念) ブランディス(障害J・GI春秋連覇) ショウワモダン(安田記念) シーイズトウショウ(セントウルS) トウシンマカオ(京阪杯) リュウノシンゲン(岩手二冠) キタサンブラック(春秋天皇賞) ファストフォース(高松宮記念) ピクシーナイト(スプリンターズS) アルフレード(朝日杯) ハクサンムーン(セントウルS) キタサンミカヅキ(東京盃) ヴェルデグリーン (オールカマー)ルールプロスパー(京都ハイジャンプ連覇) ヴェルテックス(名古屋GP) ラッキードリーム(道営三冠) |
日本競馬の歴史を探ると直面するサクラ○○オー多すぎ問題。特にチヨノオーとチトセオーは言い間違えるファンも多かったはず。
ユタカオーの父テスコボーイはとても優秀な種牡馬で、これまでもトウショウボーイや二冠牝馬テスコガビーらを輩出した。アイネスフウジンやゴールドシチーなんかもこの馬の血が入っている。
そんな優秀な馬だからこそ、ジンクスが一つあった。
「テスコボーイ産駒の栗毛馬は走らない」というものである。
ちょっと何言ってるか分からないかもしれないので画像を貼る。
栗毛というのはこういう色だ。(画像はサクラユタカオー本馬)
テスコボーイの子でこの色をしてると走らないという謎のジンクスがあったのだが、それを差し引いてもユタカオーは恵まれた体つきをしていた(名前の由来はここから)。あと見た目もかっこいい。
そんなこともあって、セリでは皆敬遠する中ジンクスの存在を知らなかった境勝太郎調教師(たぶんウマ娘の「ヴィクトリー倶楽部」の元ネタの人)が「こいつ絶対走るぞ」と購入。普段より安めに手に入った。
デビューさせた。
案の定走った。
共同通信杯(GIII)で1着。
これで皐月賞はミホシンザンとの一騎打ちになるかと思った矢先、骨折。不良馬場に脚を取られた。
10月に復帰するも中々勝ち切れないレースが続き、脚部不安もあり長めの休養を取りつつ古馬戦線(ウマ娘でいうシニア級)を迎える。
3月の大阪杯(当時はGII)で久々の勝利を飾るも、春の天皇賞は明らかに距離が合わず惨敗。また重馬場で脚が瀕死だったため残りの春シーズンを全休。
やっぱりジンクス通りなのかもしれない…と諦めかけた矢先、未完の大器は本領を発揮する。
復帰初戦の毎日王冠ではミホシンザンや後述するニッポーテイオーを相手にレースレコードを叩き出し完勝。
続く天皇賞(秋)でもミホシンザン相手に今度は芝2000m日本レコードまで出して圧勝してしまう。
その後のジャパンカップと有馬記念では結果を出せず引退したものの、生涯で勝ったレースは全て1800〜2000m。春天なんか出さずに安田記念か宝塚記念に出てたら善戦できてたのでは…?と思わせる強さだった。
引退後は功績が評価され、業界最大手、社台グループのバックアップの下、種牡馬生活が始まる。そこで生まれるのが短距離界のレジェンド・サクラバクシンオーや、怪物グラスワンダーを倒すエアジハード、ウマ娘でおなじみのユキノビジンなのだが、それはまたの機会に語るとしよう。
この世代の2000m最強は間違いなくユタカオーだったが、マイル最強馬も圧倒的な力を誇示していた。
マイルの帝王
ニッポーテイオー
世代 | 1986 |
---|---|
血統 | 父 リィフォー(リファール系) 母 チヨダマサコ(ソードダンサー系) 半妹(母親だけ同じ) タレンティドガール(エリザベス女王杯) |
成績 | 21戦8勝[8-8-2-3] |
主な勝ち鞍 | 天皇賞(秋) マイルCS 安田記念 スワンS 京王杯SC NZT 函館記念 |
主な産駒 | ハルウララ (113連敗) インターマイウェイ(産経大阪杯) |
母父としての産駒 | スプリングゲント(中山グランドジャンプ) |
(主な産駒ハルウララが気になって仕方ない人も多いと思いますが、解説を続けます)(母チヨダマサコのマサコは生産牧場・千代田牧場の場長さんの妻の名前だそうです。なんでそこから名付けたん…)
マイル界最強の皇帝・ニホンピロウイナーがターフを去る頃、時代は新たなヒーローを欲していた。そんな時にデビューしたニッポーテイオーは、新馬戦を10馬身以上ちぎってキャリアをスタートする。
デビュー戦こそ圧勝したが、気性の荒さが災いし春シーズンは中々勝ち切れず。皐月賞は8着。
ダービーのトライアルレースだったNHK杯も負けると、陣営はダービーを諦め、距離の合うマイル重賞を獲りに行く方針にシフトする。
これが功を奏し、ここからしばらくニッポーは連対(1着か2着)を続ける。
毎日王冠でレコードタイムのユタカオー相手に2着、スワンSで1着、マイルCSでは牝馬タカラスチールの猛攻に惜しくも2着と敗れるも、そのポテンシャルの高さを垣間見る秋となった。
翌年はゆったりと4月から始動。
京王杯SC(GII)で1着を取るも、安田記念、宝塚記念と2着が続く。
秋シーズンは秋天トライアルの毎日王冠から始動。
ここで惜しくも3着となり、昨年5月から続いていた連対記録は9でストップしてしまう。
この悔しさをバネに鍛え抜いて迎えた天皇賞(秋)。
本格化した彼はとんでもない事をやってのける。
今後数年に渡ってGI戦線で先陣を切り続けることになる孤高の逃げ馬レジェンドテイオー(シンデレラグレイのロードロイヤルの元ネタ)相手にスピードで押して先頭を奪い、レースの主導権を握る。
後方の有力馬が睨み合っている間もストレス無く逃げ、直線に入って他馬の騎手がその走りの軽快さに気付いた時にはもう遅かった。
とてもビッグタイトルのGIとは思えない圧倒的な突き放しっぷり。着差はなんと5馬身。
わずか2000m、しかもゴール前の坂道でこれだけ突き放して粘れる馬はなかなかいない。
この馬以降秋天で5馬身差以上を付けて勝った馬はおらず、逃げ切り勝ちした馬もいない。(パンサラッサは惜しかった)
どれだけ凄いことかお分かり頂けただろうか。
しかも、その勢いのままにマイルCSも勝利。
天皇賞とは打って変わってマイルで番手(2番手のこと)の競馬ながら、余裕の走りでGI連勝。
勢いは留まる事を知らず、翌年の安田記念も制覇でマイルGI連覇。マイルの猛者として一躍有名になった。
引退レースは宝塚記念。
次世代の英雄タマモクロスにこそ敗れたものの、最後まで圧倒的な強さを見せつけての引退。皇帝の後を継ぐ帝王は伊達ではなかった。
しかし、まさか本家皇帝の栄光も“帝王”に受け継がれることになるとは、誰も知る由もなかった。
(主な産駒がハルウララってとこでもう種牡馬時代の活躍は察してほしい)
牝馬の夜明け
1983年、ミスターシービーが常識を破壊した。
だが、破壊しきれなかった固定観念が当時の競馬観を形成しているのも事実。
「牝馬は牡馬に勝てない」というイメージも、当時としては当然のことだった。
しかし、少しずつ時代は変わる。この頃からそういった常識が音を立てて崩れはじめる。
新時代の先駆けとなったのは、黒き女王だった。
魔性の青鹿毛
メジロラモーヌ
表彰 | JRA顕彰馬 |
---|---|
世代 | 1986 |
血統 | 父 モガミ(リファール系) 母父 ネヴァービート(ナスルーラ系) 半弟 メジロアルダン(高松宮杯) |
成績 | 12戦9勝[9-0-0-3] |
主な勝ち鞍 | 牝馬三冠(桜花賞、オークス、エリザベス女王杯) 報知杯4歳牝馬特別(現フィリーズR) サンスポ杯4歳牝馬特別(現フローラS) ローズS テレビ東京賞3歳牝馬S(現フェアリーS) |
主な子孫 | グローリーヴェイズ(🇭🇰香港ヴァーズ) フィールドルージュ(川崎記念) コウソクストレート(ファルコンS) |
(祝ウマ娘化)
ようやくウマ娘化されたラモーヌさん。ただ一つ言えるのは「お前マルゼンと同じ年齢詐称枠だろ」ということだけ。
ウマ娘次元では名門メジロ家として描かれているメジロ牧場。
昭和から平成初期にかけて猛烈な存在感を放っていた牧場であり、特に80年代後半〜90年代のGIを見たらだいたいメジロがいる。
最強ステイヤー(長距離馬)にこだわるメジロ牧場はスタミナに強い血統を確立させていたが、時代の変化に伴いそれでは勝てなくなり、最終的に解散してしまった。これに関してはいつか詳しく取り上げたい。
そんなメジロ牧場だったが、歴史に残るほど名が広まったのはこのラモーヌの存在が大きい。
ラモーヌは日本競馬史上初の牝馬三冠を達成した名馬だ。
ウマ娘次元ではどっちも選べる事になっているクラシック三冠とトリプルティアラ(桜花賞・オークス・秋華賞)だが、現実では牝馬三冠として区別されている。
牡馬は牝馬三冠には挑戦できないが、牝馬はクラシック三冠も出られる。この時点ではダービーを制すウオッカみたいな化物牝馬が現れるとは全く思われていなかった。
当時の「強い牝馬」は「重賞で牡馬と戦える馬」。
ダイイチルビーの母、二冠牝馬ハギノトップレディのように、高松宮杯(今の金鯱賞と同条件、札幌記念的な立ち位置の大レース)を勝てるだけで名馬とされた時代。逆に言えば、二冠牝馬でも宝塚記念は勝てなかった。
その流れを変えたのがメジロラモーヌの世代だった。
ラモーヌは1400mのデビュー戦を大差勝ちで圧勝したり、牝馬の中に一頭だけ牡馬がいるかのような圧倒的な走りを見せる。
絶対的な能力値の違いで捻り潰すような桜花賞、そしてオークスの走り。
後にそう語られることとなる美しい黒き馬体は、見るもの全てを魅了した。
現フィリーズレビューから桜花賞、現フローラSから優駿牝馬(オークス)、ローズSからエリザベス女王杯(当時は2400m)を全て1着でクリアし、トライアルレースと本戦で完全三冠を達成した。
これは後にも先にもラモーヌだけの大記録である。
レースのローテーションのあり方が見直され連戦を避けるようになった今では絶対に不可能だ。
牝馬戦線で伝説を作ったラモーヌは、「華のある内に引退させたい」という馬主のミヤさん(メジロ家のおばあさまの元ネタ説が有力)の意向により、年末の有馬記念で引退。古馬として戦うことは無かった。
引退後もラモーヌの血は細々と受け継がれ、現在でも香港GI馬グローリーヴェイズなどが輝きを放っている。奇しくもその馬体はラモーヌ譲りの青鹿毛だ。
最後の有馬記念は9着。
進路取りでどうしようもない不利を受けた。それが無ければ未来は変わっていたかもしれないが、「牝馬は牡馬に勝てない」という当たり前が当たり前でなくなるには、まだまだ時間がかかった。
しかし、ラモーヌの遺した伝説が新たな伝説を呼ぶ。
メジロはここから始まる。
牝馬の躍進はここから始まる。
ラモーヌの意思は、同期が継いだ。
ラモーヌのオークスで3着と粘った黄と黒基調の勝負服。
この馬が80年代のメインヒロイン。
この馬が牝馬躍進の萌芽である。
名女優
ダイナアクトレス
世代 | 1986 |
---|---|
血統 | 父 ノーザンテースト 母父 モデルフール(トムフール系) 全弟 サクラテルノオー(種牡馬) 甥 タヤスダビンチ(新潟3歳S) |
成績 | 19戦7勝[7-3-2-7] |
主な勝ち鞍 | GII スプリンターズS 毎日王冠 京王杯スプリングC GIII 京王杯オータムハンデキャップ 函館3歳S |
主な産駒 | ステージチャンプ(日経賞) プライムステージ(札幌3歳S) |
主な子孫 | スクリーンヒーロー(ジャパンC) モーリス(🇭🇰香港C) ウインマリリン(🇭🇰香港ヴァーズ) ゴールドアクター(有馬記念) ジェラルディーナ(エリザベス女王杯) ピクシーナイト(スプリンターズS) ジャックドール(大阪杯) アートハウス(ローズS) ノースブリッジ(AJCC) ボルドグフーシュ( |
良い馬は良い母から生まれる。
例え父が多少見劣りする馬でも、母が名牝なら強い馬が生まれる事が多い。
某三冠馬の兄や笠松のオグリ兄妹がその証明だ。
ノーザンテースト(秋川理事長の元ネタ)を日本に輸入して名馬を続々と出した社台グループも、牝馬の血統の重要性を見抜いていた。
前回、「ダイナカールの子孫が名馬ばっか」という話をした。
名牝の直系子孫たちは「○○系」と呼ばれ、その一族は高く評価される。
だが、当時の日本は競馬後進国。強い馬をつくるノウハウも足りなければ資金も無い。
社台総帥、吉田善哉氏はラトロワンヌという名牝の子孫を欲していたが、なるべく金は少額で済ませたかった。(ノーザンテースト輸入前は馬を買いすぎて破産危機に陥っていたので)
そこで目を付けたMagic Goddessという馬は、馬体は良かったが蹄葉炎で蹄を傷めていた為に安価で購入できた。
輸入後の初仔として生まれたモデルスポートはスプリンターズS3着、ダービー卿CT1着など、短距離で抜群の成績を残した。
その馬とノーザンテーストの間に生まれたのがダイナアクトレスだった。
「ノーザンテースト産駒の最高傑作になれるかもしれない」と期待を込め育てられたアクトレス。
母が出走できなかったクラシックを走り、勝てなかったスプリンターズSを勝ち、GIにも多数出走したが、この馬の評価を決定付ける要因となったのは…
1987年のジャパンカップだった。
83年はキョウエイプロミスの大激走、84年はカツラギエース、85年はルドルフの勝利があって、なんとか海外に太刀打ちできていた日本勢。だがこの年は出走馬の格が違った。
既にGIを8勝していたトリプティク、後の凱旋門賞馬を蹴落としてGI制覇したムーンマッドネス、ドイツとアメリカでGIを勝ったルグロリューなど。
それに対して日本の出走馬はGI勝ち馬がオークス馬トウカイローマンただ1頭のみ。
ミホシンザンが引退、前年のダービー馬ダイナガリバーも調子を崩して回避。ニッポーとユタカオーは距離が合わなくて回避。もうレース前から負けてる。
そんな中で孤軍奮闘したのがアクトレスだった。
ダイナアクトレスは激走で魅せた。
1着〜10着まで9頭が外国馬という絶望的状況の中で、ただ1頭3着に食い込んだ。
当時はジャパンカップで海外勢に対して日本を背負う立場の馬を「日本総大将」などと呼んだりもしたが、アクトレスの走りはまさに総大将そのものだったのではないだろうか。
アクトレスはこの後も走り続けたが、安田記念でニッポーテイオーの2着と惜しい結果になり、毎日王冠では前述の通りシリウスシンボリに蹴り飛ばされ、天皇賞で芦毛頂上決戦を見届け引退する。
ついぞGI制覇までは辿り着けなかったが、その走りは女傑と呼ぶに相応しいものだった。
やがてアクトレスは母になり…
孫世代でジャパンカップを制覇する。
その生涯の終幕を、銀幕の英雄の錦が飾った。
そして今、アクトレスの血を引く馬が世界で羽ばたいている。あの大激走は幻ではなく必然だったのだと、血を以て証明した。
かくして、ジンクスは破られる。
「牝馬は牡馬に勝てない」
「芦毛の馬は走らない」
「一番人気は天皇賞で負ける」
時代は変わる。勝者こそが常識だ。
あとがき
以上、ウマ娘的には狭間の世代の回でした。
ここらへんの世代はウマ娘に全然出てないくせに強キャラばっかなんでいつか実装してほしいですね。
次回は#2.5。今回もちょっと名前が出てきた名馬達が激突する一年前に起きたある悲劇を取り上げます。割と心に来るかもしれないのでご注意を。某シチーガールさんも登場します。
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