※本記事は2021年3月31日にnoteに投稿した同名の記事を再編集したものです
みなさん、ウマ娘やってます?
僕は一日の半分をウマ娘に溶かすくらい沼ってます。アニメ3期と4期はよ。毎秒製作しろ。
ところで、皆さんはウマ娘の何にハマったでしょうか?キャラの可愛さ?ゲーム性?色々あれど、こんな風に感じた人も多いと思うのです。
競馬って一言で言えば「賭け事」で、そこに絡む物事には汚いイメージが付きまとっていました。
けれど、ウマ娘という間口を通ってから見た競馬の世界は想像より遥かに熱く、人々に多くの感動を与える「スポーツ」のようなコンテンツだった事に気付かされました。少なくとも僕はそう。
その感動の片鱗に触れた時、僕はこう思いました。
もっと競馬の歴史知りてえ。
YouTubeには名馬の一生やレースの名場面こそ上がっているものの、「この時代は○○と○○が争っていて、これが次の世代にこういった影響を〜」「この馬が活躍したからルールが変わって数年後にこの馬が〜」みたいな、世代を跨ぐ熱い歴史は読み解けないんですよ。
なので僭越ながら僕が自分なりに勉強しつつ、大まかな歴史をまとめてみます。ウマ娘に未だ実装されていない馬との対決や、隠れた名馬について掘り下げていきます。同じような方のためになったら幸いです。
ではいってみよう。
日本競馬の歴史
このシリーズはミスターシービーが登場する83年からのスタートなので、それまでの歴史をざっくり紹介します。(読み飛ばしても支障はないです)
- 1862年日本近代競馬のはじまり
横浜ホースクラブが組織され、現在の原型となる洋式競馬が実施された。場所は仮設された横浜新田競馬場。1866年には根岸競馬場が常設され人気を博したが戦時中に閉場した。GIII根岸Sの根岸はここから。
- 1895年豪サラ輸入開始
オーストラリアからサラブレッドが輸入された。だが当時輸入された馬は血統書が無く、サラブレッドの基準(父の血統を辿ると三大始祖)を満たしていなかった。後に冷遇され血統のほとんどが途絶えたが、例外もいた。(ミラ牝系など)
- 1905年「The Emperor’s Cup」開催
明治天皇から銀製の花盛器を下賜されたことにより創設。天皇賞の前身。1906年以降は「帝室御賞典」として、北は札幌、南は小倉まで、計7つの競馬倶楽部で開催された。
この頃活躍した馬は豪サラの第二メルボルン、安田記念の由来になった安田伊左衛門氏の持ち馬で日本とロシアで圧勝し続けたスイテンなど。 - 1907小岩井農場が繁殖牝馬を輸入
当時の民営牧場で最大規模を誇っていた岩手の小岩井農場が輸入した繁殖牝馬は、日本の在来血統の礎となっている。
最近の馬ならグランブリッジはビューチフルドリーマー、レイパパレはフロリースカップ、ナランフレグはフラストレートの牝系子孫。 - 1911年「優勝内国産馬連合競走(連合二哩)」創設
当時の最高賞金レースとして、全国各地の猛者が集結するチャンピオン決定戦的な立ち位置だった。天皇賞の前身の一つ。
この頃の活躍馬はレッドサイモン、コイワヰなど。 - 1925年「各内国抽籤濠州産馬混合競走(二哩一分)」創設
連合二哩、帝室御賞典に次ぐ名物競走として人気を博した本競走は、目黒競馬場が府中に移転するに伴い「目黒記念」と改称し今に至る。目黒記念は現存する中央重賞で最も古い競走である。
本競走の勝ち馬にはダービー馬2頭と天皇賞馬を産み、ニッポーテイオーなどGI馬の牝祖となったアストラルがいる。 - 1927年下総御料牧場の馬産が再開
戦争による軍馬増強の機運が高まり、官営牧場により種牡馬と繁殖牝馬が輸入された。種牡馬ダイオライト、トウルヌソルは共に三冠馬の父となり、繁殖牝馬8頭の牝系は数多のGI馬を輩出した。直近ではゴルシ(星旗牝系)が有名。
- 1932年「東京優駿(日本ダービー)」創設
イギリスのダービーステークスを模して目黒競馬場2400mで開催された東京優駿は、およそ100年経った今でも日本の名物競走として親しまれている。翌年には本競走に対抗し中山大障害が創設された。
- 1936年日本競馬会設立
全国11の競馬倶楽部をまとめ設立。JRA(54年設立)の前身。レース体系の整備を行い、1939年には五大クラシック競走(牡馬三冠、桜花賞、オークス)が出揃った。帝室御賞典も西は阪神、東は東京の年2回開催となり、戦後から西は京都開催で「天皇賞」となる。
この時代の活躍馬はゴルシの祖先で帝室御賞典と牝馬連合を勝利したクレオパトラトマス(月城)など。 - 1941年史上初の三冠馬が誕生
セントライトはダービーを8馬身差で圧勝するなど力の違いを見せ、菊花賞を勝利し三冠を達成した。ハンデ戦で重斤量を課される事を嫌い、オーナーが3歳での引退を決意。3歳で引退した三冠馬は国内ではセントライトのみ。
- 1943年空前絶後の変則三冠馬クリフジ
牝馬クリフジはダービーで出遅れて6馬身差レコード勝ち、オークスは10馬身差、菊花賞は大差の変則三冠。11戦無敗、うち7戦で10馬身以上の着差をつけた。
- 1948年「幻の馬」無敗のまま死去
無敗で二冠馬になり、史上初の無敗三冠を期待されていたトキノミノルは、ダービーから17日後に破傷風で死亡した。裂蹄した箇所から菌が侵入したとされる。(トキノミノルはウマ娘の登場人物「駿川たづな」の元ネタとされている)
- 1956年「中山グランプリ(有馬記念)」創設
JRA理事長有馬頼寧が「中山にダービーに匹敵する大レースを」と提案。「ファン投票により出走馬が選出される」という前例のないレースとなった。
これにて八大競走(五大クラシック+春秋天皇賞+有馬記念)が出揃った。
第1回覇者メイヂヒカリは八大競走を3勝し、顕彰馬に選出されている。 - 1959年日本馬が海外重賞制覇
ダービー含め八大競走を3勝したハクチカラはアメリカに長期遠征し、11戦目のワシントンバースデーHで後の大種牡馬ラウンドテーブルを破り重賞制覇を果たした。
- 1960年史上3頭目の無敗二冠馬誕生
新幹線「こだま」から名付けられたコダマは、その名の通り快速馬だった。クリフジ、トキノミノル以来の無敗二冠馬コダマは菊花賞を惜敗したが、古馬になると創設間もない大阪杯や宝塚記念を制し引退した。後の競馬ブームの火付け役ともされる。母はシラオキ。
- 1965年史上初の「五冠馬」シンザン
19戦15勝、2着4回。シンザンは牡馬が勝利できる八大競走を全て制覇し、五冠馬と呼ばれた。
- 1970年「ビクトリアカップ」創設
イギリスの競走体系を模した日本は、牝馬の3歳三冠目が存在しなかった。フランスのヴェルメイユ賞に着想を得た同競走は、京都競馬場にて開催された。76〜95年はエリザベス女王杯として開催、96年からは秋華賞に役目を引き継ぐ。
- 1973〜74年空前のハイセイコーブーム
地方の大井競馬で連戦連勝を重ねたハイセイコーが中央に移籍すると、マスコミの影響もありこれまでにない大ブームが巻き起こり、社会現象と化した。これを「第一次競馬ブーム」と呼んだ。
- 1976〜77年「TTG」全盛期
西の2歳王者テンポイント、皐月賞馬トウショウボーイ、菊花賞馬グリーングラスの三強時代。3頭ともに現GI競走を3勝し、その強さを証明した。
1つ下の世代にあたるマルゼンスキーは有馬記念で対決が期待されていたが、故障であえなく引退となった。 - 1981年「ジャパンカップ」創設
海外に通用する馬づくりのため、世界各国から競走馬を招待して行われる大レース。創設直後は日本馬の大敗が続いた。
ここからが今回の本題。
「シンザンを超えろ」
1980年代前半、日本競馬界は常にその言葉と共にあった。
シンザンとは戦後初のクラシック三冠馬であり、当時牡馬(オス馬)が出走できるGI級大レースを全て制覇。「もう出られるレースが無いし、海外に挑んで戦績汚すより綺麗なうちに」と引退した、驚異の五冠馬だ。ちなみに戦績は19戦15勝。残りの4戦は全て2着。
まさに『神賛』の名に相応しい、百年に一度の伝説的名馬だった。
そんなシンザンを超えるべく、最強馬をつくる努力が各牧場でなされていたのだが、彼が三冠を取ってからもうすぐ二十年。未だに三冠馬すら生まれていなかった。
しかし、革命は時に一瞬で訪れた。
1983年。突如現れたその馬は、日本近代競馬100年間の歴史の中で積み上げられた常識という常識を、いとも容易く破壊した。
天衣無縫の三冠馬
ミスターシービー
表彰 | JRA顕彰馬 |
---|---|
世代 | 1983 |
血統 | 父 トウショウボーイ(テスコボーイ系) 母父 トピオ母 シービークイン |
成績 | 15戦8勝[8-3-1-3] ([ ]内は1着8回、2着3回、3着1回、3着以下3回の意) |
主な勝ち鞍 | 牡馬三冠(皐月賞、ダービー、菊花賞) 天皇賞(秋) 弥生賞 共同通信杯 |
主な産駒 | ヤマニングローバル(目黒記念) メイショウビトリア(ステイヤーズS) スイートミトゥーナ(クイーンC) |
母父としての産駒 | ウイングアロー(フェブラリーS) ゴーイングスズカ(目黒記念) リキセレナード(小倉3歳S) |
主な子孫 | メイショウスミトモ(名古屋GP) ロングプライド(ユニコーンS) ウマノジョー(大井記念) チャイヤプーン(水沢・ダービーGP) ロングウェーブ(川崎・戸塚記念) |
初代三冠馬セントライトの栄光から42年。
シンザンの三冠から19年。
Mr. CBは今までの三冠馬の印象を大きく覆し、サラブレッドの頂点に立った。
シービーは“運命のいたずら”で生まれた馬だった。
彼の父、「天馬」とすら呼ばれたトウショウボーイは皐月賞、有馬記念、宝塚記念を制した大名馬だ。
母シービークインは毎日王冠をレコード勝ちするなど重賞3勝。輝かしい戦績を収めていた。
今の常識で考えると、強い日本馬同士の間に子が産まれるのは当然。しかし、当時はそうではなかった。
当時の日本は競馬後進国であり、「国産馬が種牡馬(種馬。要するに父)になっても成功するはずがない」という謎の共通認識があった。
なのでトウショウボーイの種付け料も格安で、待遇も良いものではなかった。
シービークインを管理していた千明(ちぎら)牧場の場長がトウショウ牧場の場長と結託し、種付け権を管理していた日高町の農協に無許可でトウショウボーイを種付けすることができるくらいには。(もちろん後でたんまりと怒られた)
種付け料が安いと“質の悪い”牝馬の所有者でもその馬と交配させることが出来るため、必然的に生まれる産駒(子供)の能力平均値も低くなる。トウショウボーイは悪い馬を出さないことで有名だったが、種を付けてる牝馬が良くないため、抜けて良い馬はほとんど生まれなかった。
だが、“掟破り”で重賞3勝馬の母から生まれた幼駒は成長すると共に馬体が良くなり、「トウショウボーイのいい所を全部受け継いでいる」とすら言われるほどに期待を受けるようになった。
千明牧場(Chigira Bokujo)を代表する名馬になるように、牧場の代表はその馬に「ミスターシービー(Mr.CB)」と、取っておきの名前を付けたのだった。
が、デビューさせてみると致命的な弱点に気付く。
シービーはスタートがド下手だった。
父は先行型。序盤から前めにつけ、最後に末脚で抜け出す王道の戦法を得意としていたが、彼はとにかく出遅れるのでそれが出来なかった。
しかしポテンシャルが圧倒的なので、最後方スタートで3コーナーから加速して、追込の末脚に賭けて勝利する競馬ができる馬だった。
母シービークインに乗ってた縁で彼にも乗ることになった吉永正人騎手は「馬が行きたいように行かせる」が信条の人のため、「出遅れをどう矯正するか」ではなく「出遅れても勝つにはどうしたらいいか」を考えた。
これが後のシービーの人気と運命を決定付けた。
追込馬故に安定せず、2歳時のひいらぎ賞を取りこぼしたものの、それ以外は連戦連勝。
そして迎えたクラシック。
雨の降り続く不良馬場の皐月賞。
伝説がはじまる。
馬も生き物。普通なら泥の跳ね返りを気にするところを、全身真っ黒になりながら追い込んで1着。
強靭な精神力と能力の高さで一躍トップに立つ。
日本ダービーでは今までの常識を全てぶち壊す競馬で魅せた。
ダービーとはホースマンにとって憧れの舞台のため、出走する馬も多くなる。馬が多くなると進路が塞がれ、意図せず負けるケースが多くなる。
故に、最も運のいい馬が勝つ。
「ダービーポジション」という言葉があった。
出走馬の壁を捌き切らなければならないダービーでは、最初のコーナーに入る時点で前の方にいないと負けだった。なので全馬が前に前に行こうとする。
その言葉が風化するきっかけの一つとなったのが、他でもないシービーの走りだった。
シービーは出遅れ最後方、前が壁になり散々だった。
しかし3コーナー手前から加速し、前の馬群を無理やりブチ抜いて4コーナーでもう先頭集団へ。
他馬と衝突するアクシデントをもろともせず、立て直して再加速して突き放して勝利。
ダービーの常識を根底から覆す走り。
その末脚は競馬ファンを魅了し、彼は圧倒的な人気を得た。ある意味、運がいい馬だったといえる。
三冠のかかった菊花賞でも、当時のあらゆる定石を破る未知の走りを見せたのだった。
京都競馬場の長距離レースは「坂をゆっくり上ってゆっくり下る」ことが勝つ為の定石だと言われていた。
もちろんそれも、「この日までは」の話である。
序盤は流れたペースが中盤になって極端に緩み、やや行きたがる素振りを見せたシービー。
終盤に差し掛かり、そろそろ追い出しの準備をしようと上り坂の途中で吉永騎手がちょっとだけ手網を緩めた瞬間、急加速してしまった。
堪え切れないというような形で、そのまま一気に先頭に立つ。
どよめきが沸き起こる京都競馬場。
共に乗っていた他馬の騎手も穏やかではない。
目下で前例のないレースが展開されているからだ。
早仕掛けのシービーに釣られ、鞭を入れる者。
あるいはきつく手綱を抑え、追い出しを遅らせる者。
どの時代にも言えることだが、桁外れの能力を有した馬は、多少騎手がミスしても勝てる。
ざわめく馬群のその先で、ミスターシービーだけが悠然とターフを駆け抜けていった。
4コーナー手前、誰もがその走りをタブーだとみなした。今までその戦法で勝てた馬がいなかったから。
だが、次の瞬間に気付かされた。
「タブーは人がつくるものに過ぎないのだ」と。
最後方からまくって先頭に立ち、逃げ切り。
よほど能力が抜きん出ていないとできない芸当。
シンザンから実に19年振りの三冠馬は、天衣無縫の三冠馬だった。その常識破りな走りっぷりに、誰もが魅了されたのである。
しかし、そんなシービーの天下は長くは続かなかった…
閑話休題。
時を同じくして、1983年の牝馬クラシックには偉大なる女王が君臨した。
女王
ダイナカール
世代 | 1983 |
---|---|
血統 | 父 ノーザンテースト(ノーザンダンサー系) 母父 ガーサント(ハーミット系) (ノーザンテーストは秋川理事長の元ネタ) |
成績 | 18戦5勝[5-3-4-6] |
主な勝ち鞍 | オークス |
主な産駒 | エアグルーヴ(天皇賞秋) |
主な子孫 | 牝系子孫:(母を辿ればダイナカール):アドマイヤグルーヴ(エリザベス女王杯連覇) ドゥラメンテ(二冠) ルーラーシップ(🇭🇰QE2世C) ジュンライトボルト(チャンピオンズC) オレハマッテルゼ(高松宮記念) アンドヴァラナウト(ローズS) レッドモンレーヴ(京王杯SC) ローシャムパーク(函館記念) エガオヲミセテ(阪神牝馬特別) ブレスジャーニー(東スポ杯2歳S) その他:タイトルホルダー(宝塚記念) リバティアイランド(牝馬二冠) スターズオンアース(牝馬二冠) メールドグラース(🇦🇺コーフィールドC) キセキ(菊花賞) ドゥラエレーデ(ホープフルS) ドルチェモア(朝日杯) ソウルラッシュ(マイラーズC) ドゥーラ(クイーンS) |
当時の競馬には様々なジンクスがあった。「牝馬は牡馬に勝てない」「芦毛の馬は走らない」などなど。(もちろん例外もいたが)
これは実際にそうで、当時は牝馬と牡馬では圧倒的な力の差があった。(トウメイという牝馬界のシンザン的存在がいたがそれはまた別のお話)
その力の差に屈さず、果敢に挑み続けた女王こそダイナカールである。
泥まみれの不良馬場に負けて桜花賞を3着と惜敗するも、続くオークスでは1着〜5着が全て写真判定の大熱戦を制した。
オークスに勝ち有馬記念に駒を進めると、牡馬にも臆することなく好走。1着と0.3秒差でゴールインした。
今となっては「普通の牝馬じゃん」で済まされるが、当時としてはそれが破格の強さだったのだ。
彼女の快進撃はここで終わらなかった。彼女の遺した遺伝子が、日本競馬界の未来に多大なる影響を与えることになる。詳しくは主な子孫の欄を参照。
競馬とは競走であると同時に、血の戦争なのである。
(エアグルーヴ編につづく)
皇帝
1984年、シービーの三冠から一年が経ち、競馬界に変革が訪れた。「グレード制」の導入である。
今まで「八大競走」や「重賞」といったくくりこそあったが、あまり整備が行き届いていなかった。
GI、GII、GIIIと、「レースの“格”が可視化」されることより、最強を決める戦いはより白熱してゆく。
今の日本競馬は84年から始まったと言っていい。
八大競走とは、日本競馬の中で最も格が高く、勝てたら名誉とされるレースだった。
天皇賞(春)、天皇賞(秋)、有馬記念、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス。
この8つで八大競走。
(ぜんぶ1950年代に成立してたレースのため、それ以降にできたジャパンカップや、当時は秋華賞の立ち位置だったエリザベス女王杯もこれらと同格とされていたが、「八大競走」が定着しすぎて微妙な立ち位置になっていた)
これら八大競走が84年に全てGIとされ、それに加えて国際招待競走のジャパンカップ、牝馬三冠のエリザベス女王杯、春のグランプリ宝塚記念、当時は東西の2歳王者決定戦だった朝日杯3歳S、阪神3歳S、春のマイル王者決定戦の安田記念、唯一新設されたマイルチャンピオンシップが最高格レースの仲間入りを果たした。
他の国(例えばアメリカとか)では、GIIレベルに近いGIも多々存在する。そもそも去年までGIだったレースが簡単にGIIに降格したりする。
一方、日本はもともと「八大競走」という伝統的な括りがあり、それに数レース+αでGIとした。そしてその前哨戦に相応しいレースや、GIシーズン以外のハイレベルレースをGIIにし、それ以外をGIIIとした。
なので日本の中央GI〜GIIはとにかくハイレベルだ。
それだけに当時疑問視されたのが、新しくGIとなったレースのレベルだ。
ジャパンカップや、後の名馬がしのぎを削る2〜3歳GIはともかく、「マイルGIは果たして必要なのか」。
そんな論調を真っ向からぶった切ったのが、史上最強の名マイラーだった。
マイルの皇帝
ニホンピロウイナー
世代 | 1983 |
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血統 | 父 スティールハート 母父 チャイナロック 伯父 キタノカチドキ(二冠) |
成績 | 26戦16勝[16-3-1-6] |
主な勝ち鞍 | 安田記念 マイルCS連覇 スワンS 京王杯SC CBC賞 チャレンジC |
主な産駒 | ヤマニンゼファー(安田記念連覇) フラワーパーク(春秋スプリント) |
母父としての産駒 | ヴァンセンヌ(東京新聞杯) |
主な子孫 | イロゴトシ(中山グランドジャンプ) ニホンピロバロン(中山大障害) ヒットザターゲット(京都大賞典) マイネルラクリマ(オールカマー) ドンクール(兵庫CS) ハルノインパクト(高知優駿) シルクアーネスト(盛岡・OROカップ) ドリームドルチェ(名古屋・東海桜花賞) |
最初名前を聞いた時「細菌みたいだな」と思った。(カンピロバクターのせい)
今でもそうだが、当時の競馬界のメインストリームは中長距離の重賞。故に、有馬記念や天皇賞を走れる馬と走れない馬とでは明らかな格差があった。
しかし、“マイルの皇帝”ことピロウイナーがマイルGIで暴れたおかげで、次第に短距離路線も脚光を浴びるようになる。
シービーと同期だった彼は距離適性からクラシック三冠の道を諦め、短距離路線で連勝を重ねていた。そんな時に入ってきたマイルGIのニュース。出ないわけが無い。
4歳春は怪我で安田記念を棒に振ったものの、第1回マイルCSは1着。その後もマイラーズカップ(GII)や翌年の安田記念、マイルCSを勝利し、最強マイラーとしての地位を確かなものにした。
ご覧の通り、楽に突き放してから粘り勝ち。
1600mなら誰にも負けない、マイルの皇帝。
しかし、少し引っかかる。なぜ皇帝は皇帝でも“マイルの”皇帝と呼ばれるようになったのか。
答えは、皇帝がもう一頭いたからに他ならない。
1984年。この馬がターフを駆け、日本競馬が変わった。
皇帝
シンボリルドルフ
表彰 | JRA顕彰馬 |
---|---|
世代 | 1984 |
血統 | 父 パーソロン 母父 スピードシンボリ |
成績 | 16戦13勝[13-1-1-1] |
主な勝ち鞍 | 無敗三冠 有馬記念連覇 ジャパンC 天皇賞(春) 日経賞 セントライト記念 弥生賞 |
主な産駒 | トウカイテイオー(無敗二冠) ツルマルツヨシ(京都大賞典) アイルトンシンボリ(ステイヤーズS連覇) ミスタールドルフ(ダービーグランプリ) |
母父としての産駒 | アクティブバイオ(日経賞) ブルーイレヴン(関屋記念) テンセイフジ(関東オークス) |
主な子孫 | トウカイポイント(マイルCS) ストロングブラッド(かしわ記念) ヤマニンシュクル(阪神JF) フィールドルージュ(川崎記念) |
どちゃくそ強いのにゲームではダジャレテンアゲ姉さんと化してしまった残念皇帝。これにも理由がある。
日本馬で初めて凱旋門賞に出走し、7歳にして有馬記念連覇をやってのけた老雄、スピードシンボリの血を受け継いだシンボリルドルフは、何もかもがシービーと対照的な馬だった。
やろうと思えば全て出来る馬だった。逃げ、先行、差し、追込オールA。(日経賞の逃げ切りは痺れる)
だが、シンボリのオーナーがヨーロッパの競馬に憧れていたため、好位から抜け出す競馬にこだわった。
安定したスタートから中団につけ終盤で差し、大差を付けずに流して勝利。
シービーが爆発力ならルドルフは安定感。
そんな正確無比な走りで史上初の無敗三冠をあっさりと達成してしまった。
シービーの三冠からわずか一年後の事である。
ただ淡々と勝ちをもぎ取る。
あまりの強さに、皇帝はシービーに比べ人気が出なかった。強すぎてつまらなかったのだ。だからってウマ娘になってまでつまらんダジャレ言わなくても…
(※ルドルフのダジャレの理由は、シンボリの和田共弘オーナーの麻雀のハウスルール「パーソーロン」に由来する説が有力らしい。シンボリ牧場はメジロ牧場と共同輸入した「パーソロン」という種牡馬を重用しており、ルドルフもその産駒だった。だから八索(パーソー)でロンしたら一飜上乗せルールで麻雀やってたらしい。出典は「野平祐二の新しい競馬」など。情報提供して頂いたコメントの方、ありがとうございます!)
そんな圧倒的な力を前に、人々はこう思った。
「三冠馬と三冠馬が戦ったら、どっちが勝つんだ?」
その答えはすぐに明らかになった。
無敗の皇帝が菊の次に選んだのはジャパンカップ。そこにシービーも参戦するという。
世紀の大決戦の予感に、観衆は震えた。
決戦の舞台は特別な場所だった。ジャパンCは毎年海外から強豪馬がやってくるのだが、初開催から3回、全て外国勢が1着を取っていた。当時の日本は競馬後進国だった。
83年のジャパンCはシービーが三冠の疲れを癒すため長期休養しており、「一番強い三冠馬はなぜ出てこない?我々に対して失礼ではないか」と外国人記者が言った。
天皇賞馬キョウエイプロミスの高松調教師はこれに対し「だから、“日本で一番強い天皇賞馬”が皆さんのお相手をするのです」と啖呵を切った。
脚部不安を抱えながらも極限まで仕上げきったプロミスはその後の競走馬生命を投げ打って走った。何度も何度も鞭が入った。結果は、アタマ差の2着。
日本勢のジャパンC制覇は夢物語ではないと証明されたのだ。
そこから一年。今年はシービーがいる。
圧倒的一番人気の三冠馬が、海外を迎え撃つのだ。
そして、ルドルフはというと…
体調を崩していた。(それもあってか4番人気)
この頃の菊花賞は開催時期が遅く、ジャパンCまで日程が無い中で無理やり調整したからだ。
海外勢に一矢報いるのは先代の大人気三冠馬か、それともここまで無敗の今年の三冠馬か。
大地は揺れた。そして…
創設4年目にして初めて、日本馬がジャパンカップを制した。
だが、ゴールに真っ先に飛び込んだ馬は、皇帝でもシービーでもなかった。
翔馬
カツラギエース
世代 | 1984 |
---|---|
血統 | 父 ボイズィーボーイ(プリンスリーギフト(ナスルーラ)系) 母父 ヴェンチア(レリック(マンノウォー)系) 半妹 ラビットボール(中山牝馬S) |
成績 | 22戦10勝[10-4-1-7] |
主な勝ち鞍 | 宝塚記念 ジャパンカップ 毎日王冠 産経大阪杯(GII) NHK杯 京都新聞杯 京阪杯 |
主な産駒 | ヤマニンマリーン(サンスポ杯4歳牝馬特別) アポロピンク(大井・東京ダービー) ヒカリカツオーヒ(エンプレス杯連覇) |
母父としての産駒 | タイムフェアレディ(フラワーC) |
主な子孫 | トップオブワールド(ユニコーンS) キョウエイトリガー(川崎・ローレル賞) |
(祝ウマ娘化)
世紀の大伏兵の逃げ切り勝ち。場内は異様な空気に包まれた。
基本的に、三冠馬が出る世代はその馬だけが飛び抜けて強いことが多い。
これは他の三冠馬にも言える事だが、もしライバルが強かったら、三冠のどこかで一戦負けていたかもしれない。
Eclipse first, the rest nowhere.
唯一抜きん出て並ぶ者なし。
圧倒的な一強である事が世代最強の最低条件なのである。
だが、シービー世代にその理論は通用しない。
先述したニホンピロウイナーはもちろん、3歳にして有馬記念を制したリードホーユー、後の天皇賞(秋)でルドルフを破るギャロップダイナなど、ポテンシャルの高い馬ばかり。
無論、シービーが回避した宝塚記念を獲ったカツラギエースも例外ではなかった。しかし、いかんせん三冠馬が強すぎて全く見向きもされていなかった。
いや、見向きもされていなかったから、ノーマークで気持ち良く逃げ切れたのだ。
3コーナー手前から急激に減速。脚を使い切ったと思わせ少し休憩。
直線で他馬が競りかかってきてから強烈な粘り。
言っちゃえば「死んだフリ戦法」。
10番人気の大番狂わせだった。
カツラギエースの鞍上で、後にカワカミプリンセス、ホッコータルマエの調教師となる西浦騎手は、勝利騎手インタビューで「してやったり」と言い放った。
さらに、波乱はそれだけではなかった。
ミスターシービーは、10着に終わったのだ。
当時の過酷な馬場(芝のコンディション)は今とは比べ物にならない。今後も数多くの名馬を紹介するが、90年代初頭までの名馬は大多数が現役時代に脚部に異常を来している。
そんな中で追込を続けたシービー。負荷がかかることは言うまでもない。
そもそも彼は体質的に蹄が弱かった。最後のGI勝利となった天皇賞(秋)以降、脚元との戦いになったことも不運だった。
それに加えて、追込の豪快さで人気を得た彼に対し、管理する松山調教師はある不安を抱いていた。
「まくりや直線一気のレースでは、“本当の一流馬”を相手にした時には届かないのではないか」
その不安が現実に変わった瞬間だった。
これ以降、シービーは持ち前の豪脚を発揮しきれぬまま、引退までもつれ込むことになる。
彼は間違いなく三冠馬に相応しい器だった。
今までの競馬の常識を壊し、圧倒的な人気を得て、最後までアイドルホースであり続けた。
しかし、その極端な戦法を人々が愛した結果、そうであり続けることを誰もが望んでしまったのかもしれない。アイドルとは孤独だ。
そもそも、直前まで最後方にいた馬が短い直線だけで先頭に立てる方がおかしいのだ。そう思われていた。2005年までは。
後世に似たような戦法で名を馳せた無敗三冠馬がいるのも、彼の不幸なポイントだった。
三冠で見せた圧倒的ポテンシャル。それでも最弱三冠馬と揶揄されることもある。皇帝が強すぎただけだと思うんだけどな…
ルドルフとシービーは対照的と言ったが、これは成長面においても同じである。
ルドルフは古馬になってからは敵無しになった。
その結果が16戦13勝、GI7勝。
ジャパンCは不調(それでも3着)、ギャロップダイナに負けた秋天も怪我のせいでぶっつけ本番(2着)、最初で最後の大敗を喫した海外GIも調教中に靭帯炎を起こしていた可能性が高いという。
勝利より、たった三度の敗北を語りたくなる馬。
まさしくその言葉通りの孤高の生き様だった。
結局、靭帯炎の影響で皇帝の神話は終わりを迎えるのだが、その血は新たなヒーローに受け継がれる。
皇帝がどうしても成れなかった、「誰もに愛される名馬」に。
まとめ
というわけで、今回はシービーからルドルフの無双時代までをざっくりまとめました。
ちなみに文中に登場した女王ダイナカールですが、ウマ娘でもちらっと顔を出したりしてます。
(他にも電話する時「もしもし」じゃなくて「やっほ〜」って言ってた。女王の貫禄、0じゃね…?)
次回はヒーロー登場までの狭間の世代です。皇帝に蹂躙されながらも必死に戦った名馬や、史上初を成し遂げた牝馬が登場します。(あんまりウマ娘化はされてない)
ここまでお読み下さりありがとうございました〜。
次回もぜひ。
コメント
楽しく読ませていただきました。
ご存知の上で取り上げていないかもしれませんが、ルドルフのダジャレ好きの由来はシンボリ牧場の麻雀のローカルルール「パーソーロン」から来ているという説の方をよく耳にします。
又聞きではありますが、調べる限り出典は「野平祐二の新しい競馬」p.118のようです。
存じ上げませんでした。あのダジャレにすら元ネタが存在したとは…
貴重な情報をありがとうございます。